 キッ、と鋭く鳴いて、不意に妖魔の体が緊張した。 「ろくた・・・？」 視線の先を追って、更夜は蒼穹の彼方から一直線に近づいてくる 影に気が付いた。 金色の鬣を後ろに引き、すばらしい早さで空を駆けてくるしなやかな 肢体の獣。 「六太・・・？」 すとんと着地し、やや遅れてきた女妖を待って転変する。 すかさず差し出された袍に手を通し、人懐こい笑顔で六太は振り返った。 「やあ、更夜」 遥か眼下に黄海を見下ろす崖に並んで腰掛け、更夜は問いかける ような視線を六太に向ける。 その視線に気が付かぬふうで、投げ出した足をぷらぷら揺すって 六太は小さな点のように見える里を指さした。 「あれかぁ、更夜の宝物」 |
| 黄海にあるたった一つの里。 人知れず確かに息づく黄朱の里木こそ、四〇〇年前、更夜が望んだたった一つの物だった。 いまでこそ小さいながらも枝葉を伸ばし根を張ってはいるが、植えた当初は根付くかどうかさえ疑わしい状態で それこそ更夜は日参したものだ。 そして、そこには更夜を待つ黄朱の少年が居た。更夜や、六太と同じように親に捨てられた少年が。 黄海に捨てられ、命を落としかけてなお、その瞳から輝きを失わせなかった少年。 彼には守ってくれる妖魔も、仕えるべき王もなかったが、ただひたすらに生きる意志だけは失わなかった。 更夜はそのたくましさに惹かれたのかもしれない。 やがて黄朱の長となり、ヒトのままこの世を去ったその少年を、いまも更夜は忘れていない。 -＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊- |
| 斡由を失い、失意のうちにあてもなく黄海をさまよっていた更夜は、偶然に妖魔に襲われた少年を助けた。 更夜にとってそれはまったくの気まぐれでしかなかったが、全身で信頼してくる少年を捨て置くことも出来ずに 黄朱の民が集まり暮らす場所まで送り届け、そこに置き去りにしたのだった。 ・・・それで終わったハズの出来事だった。 幾日かして、それでも気になってそっと様子を見にいった更夜に、少年は飛びついてきた。泣きじゃくりながら。 首にしがみつきわんわん大泣きする少年の背を当惑して撫でながら、更夜はヒトの体温の暖かさを初めていとおしい、と思った。 誰かに受け入れられたいと、・・・守ってくれるもの、守るものをほしいと、ずっと願ってきた。 だが、それが叶わぬ願いであることを、イヤと云うほど思い知らされてもいた。信頼したはずの斡由の死を目の当たりにして。 しかし、少年に引き合わされた黄朱の民は、彼の背後の妖魔−天犬ろくた−を見ても恐れなかった。 ごく自然に更夜は黄朱に受け入れられたのだ。・・・・ただ、更夜はもやはヒトではなかった。 『犬狼神君』と。 更夜は神仙として、彼らの守護者として黄朱に受け入れられたのだった。 それでも良い、と更夜は思った。決して届かぬ蓬莱ではなく、人のぬくもりのある里がここにあり、自分を必要としてくれているのなら。 少年は、どこか六太に似ていたように思う。 年取らぬ更夜を追い越して大人になっても、その人懐こい笑顔は変わらなかった。たくましい”黄朱の長”となっても、更夜を見るといつも 嬉しそうに駆けてきた。 星の美しい夜には、よく彼と更夜は並んで寝転んで、いろいろな話をしたものだった。 もっとも話すのはいつも長で、更夜はもっぱら相づちを打つだけだったが。 そうしてある夜、長は云ったのだ。 ”里木が、・・・子がほしい・・・・” 黄朱のムラの起こりは定かではない。 黄海にしか居られぬ流民が集まり、いつしか集落ができていた。 肩寄せ合って生きていくうち、恋も生まれたが、里木がないここでは子を望めぬ。 思いあまって黄海の外から子を拐かした男女が処罰された、その夜のことだった。 彼らは最低限の食料だけでムラを追放され、それは近い将来の二人の死を意味するものだったのだ。 ごろんと打った寝返りは、押さえられぬ涙を隠すためか。 長もまた妻と呼ぶ人を持つ故に、彼らの切羽詰まった気持ちは誰よりも察していたのだったが。 だが、黄朱が黄海で生きていくために、それは絶対に見逃がせない罪だった。許せば、必ずあとを追うものがでる。 ・・・そして黄朱はやがて、黄海の外を全て敵に回すことになるだろう・・・。 背中を向けたままで途切れがちに言葉を紡ぐ長を、更夜は寂しげな瞳で見つめていた。 人の営みに入り込めない自分を、・・・力の及ばぬコトの存在を知って。 やがて更夜は黄朱の言い伝えにあるように、玉京の天帝・諸神に嘆願して里木の枝を得た。・・・誰より大切な、友のために。 それは奇跡に近い出来事だった。 黄朱の伝承に云う。黄朱以外のものが里木に触れたとき、それは枯れると。 −−だが、その里木に付けられた条件はそれだけではなかった。 神仙である更夜が、あまりに人に肩入れするのを良しとしない神々が付けたもう一つの条件、それは ”神仙、みだりに人と交わるを禁ず”というものだった。 -＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊- 「なあ、そろそろ関弓に来ないか」 片膝を抱え込んで、六太は振り返った。 思いのほか真剣な表情に、すこし驚きながら更夜は首をかしげる。 「おまえ達が住める雁にするって、いっただろ」 見上げてくる六太は、出会ったときと同じ十三才くらいにしか見えない。 その真摯なまなざしを見て、不意に更夜は理解した。・・・・自分が頑ななまでに『犬狼神君』であり続けた理由を。 人になってしまいたい。黄朱となって皆と暮らしたい。 そう思う心とうらはらに、孤独な守護者の道を選んだ本当の理由を。 里木がどうやら根付き、条件に従って里を離れるとき、それとなく事情を察した長に強く引き留められたが、 その袖を払った理由こそ、この六太だったのだ、と。 ・・・ただ、六太が迎えに来てくれることだけを願っていたのだと。 答えない更夜に、焦れたように六太が云う。 「三〇〇年も待ったぞ、俺」 そう、十二国のうち、乗騎家禽に妖魔を加えているのは、いまだ雁国のみである。 三〇〇年ほど前に、多くの反対を押し切ってまで発せられた、更夜のための勅令だった。 「六太」 視線を返して更夜はいう。青味を帯びた黒髪を風がなぶっていった。 日除けの布がはためき、玉の被巾が陽光を弾いた。 ふ、と笑みを刷いた更夜を怪訝そうに六太は見つめた。 「更夜？」 「この前、おもしろい子に会ったよ」 「おもしろい？」 「うん。 たった十二才の女の子が、王になるのだと云って、この黄海を渡ってきた」 「・・・それって、もしかして供王のことか？」 こくんと頷いて 「彼女なら、そう、きっと軽々と王をしていけそうだ。・・・何百年でも」 そういう更夜を不思議そうに見上げて 「ふうん？」 六太は首を傾げた。 「無鉄砲で、自信家で。子供っぽくて、正義感で・・・」 「・・・更夜、それ、ほめてないぞ」 「眼差しが六太に似てた」 まっすぐで明るく強い眼差しは、という台詞は口に出さず、更夜は空に視線を向けた。 思わぬところで引き合いに出されて面食らったふうの六太を視線の端で感じながら、更夜は風が髪を散らすのに任せ、目を細めた。 「・・・・おれは、関弓には、行けない」 「！！なんでだよっ」 詰め寄る六太を静かに見返して、更夜は云う。 「俺を必要としてくれる者が、ここに居るから」 瞬間、悔しそうに唇を噛んだ六太は、ぷいっとそっぽを向いて呟いた。 「俺だって。 ・・・俺だって更夜に来てほしいのに」 その言葉に嘘はない、それを知っているだけに、なお更夜は頷くことができない。 ”夜更けに捨てられた子供” 六太に惹かれる理由が、その共通点だけでないことに気づいてしまったから。 いつも渇望していた人のぬくもり。 更夜にとって、それは初めて人として接してくれた、遠い日の六太そのものだったことに気が付いてしまったから。 関弓に行ったら、側で過ごすようになったら、自分は六太の影になってしまう。 自我すら捨ててそうなることを望んでしまう。・・・斡由の時のように・・・。 それほどに深い渇望を知るから、・・・そして、それを六太が望まないことを知るから、更夜は関弓に行けない。 自分が自分として在り続けるために。 -＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊- 頑なにそっぽを向きなら、六太は目だけを動かして更夜をちらりと盗み見た。 其処にいるのは、もはや元州城の露台から泣きながら去った射士ではなく、まして妖魔の子供であるはずのない 一人の神仙だった。 風に乱れた髪をすい、と掻き上げる仕草につれて、被巾のように連ねた玉がキラリと陽を弾く。 ・・・いつの間にか、こんなに鎧が似合うようになっていたんだ、と六太は切なく思った。 彼が黄海の守護者『犬狼神君』であることは充分承知していたはずなのに、と無理やり視線を空に戻したが、視界がぼやけてくるのを 止められない。 「更夜は、きっとここには来ないぞ」 六太が玄英宮を飛び出すきっかけとなったけんかの発端は、尚隆のこの台詞だった。 めちゃくちゃ腹立たしいことに、それは六太の不安を言い当てており、なお悔しいことには反論するだけの自信がなかったのである。 準備ならば三〇〇年も前にした。折にふれて様子も見てきた。だが更夜は、一度たりとも関弓に来ようとしなかった。 イタイ所を突かれて六太は飛び出して来たのだ。なんとしても更夜を連れ帰り、尚隆の鼻を明かしてもやりたかった。だが・・・ へーっくしょんっ 自分でもびっくりするほど大きなくしゃみをして、弾みに崖から転がり落ちそうになった六太を、軽々と片身で受け止めて 更夜はくすっと笑った。 目の前の、更夜の鎧に覆われた肩。思わずぎゅっと抱きしめて、聞こえないような小さな声で六太は呟いた。 「俺だって、ずっと待ってたんだぞ」 更夜の片腕がキュッと背中に回されて、でも聞こえてきたのはため息だけだった。 女妖の背にまたがって、それでも無理に笑ってみせる六太に微笑み返しながら、更夜は言葉を紡ぎ出せなかった。 言葉は気持ちを偽ってしまう。 共に行きたい、そう言えない更夜には、六太に云うべき言葉がない。 「じゃ、またな」 まさに女妖が飛び立とうとした瞬間、だが更夜の足は、自分を裏切って地面を蹴っていた。 「！」 羽交い締めに六太に抱きついて、更夜は共に地面に転がる。 女妖がとっさに攻撃の態勢を取るのを止めて、六太は振り向こうと更夜の腕の中でもがいた。 「更夜？」 返事はなく、ただ泣いている気配を背中で感じて、六太は力を抜いた。 ・・・深夜の黄海で泣いていた妖魔の子が、其処にいた。 「更夜・・・」 「・・・ごめん」 ややあって、顔を上げた更夜がすまなそうにあやまった。六太の背中にはくっきりと更夜の涙の跡が残っている。 「どうってコトないって。 ・・・う、へへ、へくしゅっ」 吹きさらしの風に思わず身震いする六太を、更夜は急いで日除けの布を脱いでくるんだ。 露わになるその鎧姿。 だが六太は笑って手を差し出した。姿こそ違っても、昔と変わらぬ更夜がそこに居る。 「いつでも待ってるから、絶対・・・遊びに来いよ」 「うん」 照れくさそうに笑って、更夜は六太の手を握った。 「いつか、きっと」 -＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊-＊- 遠ざかる影をいつまでも見送る更夜の肩を、暖かな羽毛が抱いた。 きゅる、と鳴いて嘴で肩を撫でてくる妖魔の首に腕をまわして更夜は微笑んだ。 「ありがとう、ろくた。 だいじょうぶだよ。・・・もう泣いたりしないから」 いつか一緒に行こう、関弓へ。 言葉にならない、それは約束。 更夜の、六太とろくたへの、遠い約束。 いつか、もっと強く、つよくなれたら。 きっと。 |
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●あとがきに代えて● 読んで下さって、ありがとうございました。十二国記から雁国延麒”六太”と更夜のオハナシです。 書いたのは随分前ですが、機会がなくてほとんど同人誌も売っていなかったので、日の目を見てなかったんですの。(^^;) 「東の海神 西の滄海」の最後のさいご、『雁史邦書』に”白雉八十七年・・・・”というくだりがあって、雁国が妖魔を家禽に数えるコトと なったという記事（笑）があるのですが、この話はまさしくそこから出発しています。 果たして更夜くんは関弓に行ったのか、行かなかったのか？と思っていた折りもおり、「図南の翼」で『犬狼神君』として更夜君登場。 んじゃ、どうして行かなかったのか？？？ということへの私なりの回答ではあります（苦笑）。 お気に召しますかどうか。さて。 |