夏氷
-1-
ひんやりした風が、そっと頬を撫でる。
苦しかった息が急に楽になった気がして、あかねはぽかりとその目を開いた。
視界を半分覆う白い物に触ってみて、それが濡れた布だと知る。
「気が付いたかい」
頭上から降ってきた声に、初めて自分が横になっていることにあかねは気が付いた。
・・・あれ？どうして？
起きあがろうと片手を付いた彼女を、さりげなく支えてくれる彼が云う。
あかねの肩からはらりと落ちた薄衣は、見覚えのあるその人のもの。
「まだ無理はしない方がいい。
・・・覚えていないかい？君は倒れたのだよ」
見慣れない調度品の並ぶ、ここは何処？
「友雅さん？」
きょろきょろと辺りを見回すあかねに、彼は笑って答えた。
「ここは私の館だよ。・・・あそこから一番近かったのでね」
「橘少将様」
「ああ、頼久。
神子殿が気が付いたよ。
一足先に藤姫にそう伝えておくれ。ずいぶん心配されているだろうから。
神子殿は日が暮れてから、私が送っていくとね」
「は、では失礼いたします」
「友雅さん、もう大丈夫です、私」
「いいからもう少し休んでいなさい。
・・・それとも、私の館では気が休まらないかな？」
「そ、そんなこと」
「ではもう少し顔色が戻るまで、おとなしく横になっておいで」
「はーい」
こういう友雅に逆らっても勝ち目のないことを知るくらいの時間、あかねは京に居る。
そう、もう３ヶ月にもなろうか。
「さ、日が暮れるまで、もうすこしおやすみ」
友雅は横になったあかねの額に絞りなおした布を載せ、手にした蝙蝠でゆるやかに風を送ってくれる。
思わず見上げた視線が彼とぶつかって、あかねはあわてて目をそらせた。
どうしてだか耳の付け根までが真っ赤になる。
露わな自分が心許なくて、あかねは傍らにつくねてあった薄衣を引きよせて引き被った。
「・・・あまり人を驚かせるものではないよ、神子殿」
ポツリ、とつぶやきが降ってきた。
-2-
逸らした視線を戻す勇気がないまま、あかねはそっと目深に乗せ直した布と鼻の隙間から辺りを見回した。
藤姫のしつらえてくれた部屋ほどの華やかさはないけれど、さりげなく置いてある調度の１つひとつに
程良い趣味の良さがうかがえる。押しつけがましくなく、かといって地味に沈むのでもなく。
吟味され選ばれたものだけがそこに在る贅沢さ。
鼻先を微かにかすめるのは、いつも友雅がまとっているものと同じ華やかで豪奢で、懐かしい香り。
心満たす安らかさは、きっとこの香りのせい。
二人を包むのは、彼が蝙蝠で起こす風が几帳を微かにゆらす気配まではっきりと判るほどに、しん、と静まった真昼の気配。
６月もまだ半ばだというのに雨の降らぬ京はカラカラに乾ききり、日差しはまるで真夏のように容赦なく照りつけて。
真白な日差しを几帳の向こうに見るうち、ああ、とあかねは思い出した。
朝からあまりに暑くて、おまけに戦っていた怨霊が火の属性で。
どうにか封印したものの、札を手にした途端、残っていた水気を奪われたように意識がなくなったのだった。
あ、地面にぶつかる・・・と思ったところで浮揚感を感じて・・それきり意識が途絶えたのだ。
「君たちは、どうやら暑さには弱いようだね」
独り言のように友雅は呟いた。
「君たち？」
「君と、詩紋と天真だよ」
「え？」
「まるで常春の国からでも来たかのようだね。君も、彼らも」
「そんなこと・・・」
言いかけてあかねは口ごもった。
常春、とまではいかなくても確かに此処に比べれば、遥かに自然と隔たった生活を送ってきていた。
暑さはクーラーで、寒さはヒーターで人工的に凌いでしまって、本当の暑さ寒さを知らない。
なによりこの程度の暑さで倒れていては、言い訳のしようもない。
「殿、ご所望のもの左大臣家より届きました」
と、そのとき密やかな声と共に几帳の影からそっと差し出されたものがあった。
蝙蝠をはたりと閉じて、友雅が頷く気配がする。
「神子殿、口を開けてごらん」
云われるままに開けた口にそっと落ちてきたそれは、あまりに小さくて一瞬のうちに溶けて無くなってしまった。
「え？」
「起きられるかな？」
微かに笑う気配を忍ばせて友雅が問う。
-3-
「うわぁ、氷！」
手渡された白銀の器にあかねは思わず歓声をあげた。
小振りな固まりをそっとすくい上げて口に入れると、ほのかな甘みと冷たさが口中に広がる。
噛んでしまうのが惜しくて、でもじっと含んでいるのも冷たくて。
「お気に召したようだね」
ぷっくり膨らんだあかねの頬をそっとつついて、友雅は可笑しそうに笑った。
「ありやと」
「ん？」
「ありがと、友雅さん」
「どういたしまして。お礼なら藤姫に云っておくれ」
「藤姫に？」
「左大臣家から分けてもらったからね」
「これ？」
「あちらが氷室を開けさせたのを、偶然知っていたのでね」
「・・偶然」
ぼそっとあかねは呟いた。あやしい。・・・友雅さんの偶然なんて、怪しすぎる。
「神子殿、溶けてしまうよ」
涼しげな顔でそう言われると、切り返す言葉もないけれど。
はらりと蝙蝠を開いて風を送ってくれながら、友雅はまぶしげに外を見やった。
「まだ日暮れまでは間がありそうだね」
まるきりの子供扱いがなんだか悔しいけれど、それもなんだか心地よいと思ってしまって。
手にした白銀の器はひやりと冷たくて、火照った頬にあてると思わずため息がでた。
-4-
器に残った最後のひとかけら。
「・・・友雅さん」
「ん？」
振り向いた彼に、いたずらっぽくあかねは笑った。
「はい、あーん」
軽く目を瞠って、それでも次の瞬間には同じようないたずらっぽい眼差しで友雅は笑う。
「ではありがたく」
さりげなく差し出したつもりなのに、近づくほどになぜか匙の先が震えてしまう。
彼の軽く開けた唇に匙の先が届いた。と、彼女の手は匙ごと友雅の掌に包まれた。
びっくりするあかねにニッと唇で笑って、彼は匙の上の氷を器用に口に含む。
そして放された手を慌ててひっこめる彼女に、友雅は澄まして「ごちそうさま」と笑った。
カラリと彼の口中で氷が鳴る。
こくりと喉元が動いて、ひとしずくが飲み込まれていく。
さりげない動作が艶めかしくて。
右手に匙を握りしめたまま、あかねはただ呆然と彼に目を奪われていた。
・・・・うわぁっ・・・色っぽ・・い。
「神子殿？」
「うぁっ・・と。あ、ごちそうさまでした！
えっと・・・・・もうちょっとねてようかなぁ」
カタンと器を置いて、あかねはくるりと背中を向けた。
その肩に薄衣を被せてくれながら、くすくす友雅は笑った。
「氷を気に入ってくれたのはうれしいけれどね、
・・・匙を握ったままでは、いかに神子殿でも眠りにくいだろう？」
友雅さんの、いじわるっ。
-5-
さやさやと風が草むらをゆらしてゆく。
日が落ちてやっと涼しい風が吹くなかを、牛車がゆるゆる進んでいく。
あれから日暮れ時に軽い食事をする間も、それから牛車に同乗する今も、あかねはまともに友雅を見ていない。
本当は一緒に居られるのがすごくうれしいのに、それを彼に見透かされるのが恥ずかしくて。
抱き上げて牛車に乗せてもらうときも、まるで人形のようにカチコチに緊張していた。
今までの彼は「頼りになるオトナの人」だった。一緒にいると安心できる好きなヒト、だった。
だけど。
さっき垣間見た彼は・・・。
まるでオトナの仮面がパタリと落ちて、内側に隠された本当の顔が見えたようだった。
思い出しても胸がドキドキ。あれがきっと女房達が騒ぐ「友雅さま〜っ（はぁと）」なんだ。
頭から被った薄衣を口元に握りしめて、あかねはそっと彼をうかがう。
澄ました顔を外に向けて、彼はまるで空に月でも探すかのよう。
外から一陣の涼やかな風が入って彼の髪を揺らす。
それすらもなんだか艶めかしく見えて、あかねはプルプルと頭を振った。
「・・・神子殿？」
「な、なんでもありません」
「ずいぶんと気に入ったようだね」
「え？」
「その薄衣だよ」
云われて気が付けば、彼の館で目覚めてからずっとその薄紅の衣を握りしめていた。
「あ、ごめんなさい」
返そうとするあかねを制して彼は笑った。
「君にあげよう。・・・いや持っていてくれまいか、神子殿」
「え、でも」
「いいんだ、いつか君の衣を頂くから」
「？そうですか？？」
「そう、いつか、ね」
いたずらっぽく微笑む彼につられて、あかねも何となく頷いた。
「ん、それなら遠慮なく」
-6-
「まぁ！そんなことを！！！」
いきなり真っ赤になった藤姫についていけなくて、あかねはびっくりした。
「ええ？そんなことをって、藤姫」
「友雅殿ったら、神子様になんてことを」
「だって、衣をくれただけだよ。んで、私のをいつかあげるねって」
「みーこーさーまぁぁー」
藤姫はあかねの両袖を握って、がっくりうなだれた。
「藤姫？私なんか変なこと云った？」
「神子様は”後朝”という言葉を、ご存じありませんか」
「きぬぎぬ？うーん・・・そういえば前に古文で習った気が」
「今夜から、神子様は塗込めでおやすみ下さいね」
「ええ？だって暑いよ、藤姫」
そんなあかねの苦情は、見張りの女房は何人くらい要るのかしら、と指折り数える藤姫に届くわけもなく。
寝苦しい夜をひとつ二つ越えた頃、あかねもその訳がやっと思い出されて、耳によみがえる古文の先生の言葉に、
一人赤面したのも塗込めのなか。
「後朝とは契りを交わした男女がだなぁ、翌朝お互いの衣を交換した麗しい習慣で、先生も昔憧れたもんだ・・・・」
恋愛初心者にもはっきり判る、この前途多難な恋の道行き。
ライバルはてんこ盛りだし、心ならずも防御は完璧だし。
でもきっと大丈夫。
暗闇の中の灯火のように、この薄衣が照らしてくれる。彼までの遠い、遠い道のりを。
・・・・・ホントに前途多難な恋だけど。
でも抱きしめていたいから。
この想いがあの日の氷のように溶けて無くなってしまわないように、と。
・・・・それにしても、友雅さん除けの（はずの）見張りの女房の人数が、日毎に増えているのは
ねえ、どうして？
ｅｎｄ
●あとがきに代えて●
文中、友雅さんの持っている「蝙蝠」ってなに？というお問い合わせがありましたので、補足説明しますね。
蝙蝠（こうもり）と書いて「かわほり」と読みます。実際の発音はコウモリかもしれませんけれど（笑。
漫画「遥かなる時空のなかで」（４巻）で、友さまが小天狗ちゃんをはたき落としたアレ、竹製の骨に紙を貼った扇のことです。
形は今の舞扇に近い感じですね。形が羽を広げた蝙蝠に似ているのでこの名前が付いたそうです。
檜の板で作られた「檜扇」（藤姫ちゃんが持っているアレ）が先に発明されて、この蝙蝠が後にできたそうですよ。
ちょっと意外ですね。
また檜扇を「冬扇」と呼ぶのに対して、蝙蝠を「夏扇」と呼ぶ呼び方もあるそうです。
さて、この物語はいかがでしたか？お気に召しましたでしょうか？
どうぞ感想などＢＢＳにお気軽に書き込んで下さいね〜/(^-^)/
では、また次の物語で。