皐月闇
-1-
音もなく雨は降っている。視界を銀にけぶらせて。
天は祈りに応え、餓えた大地に慈愛の雨を降らせている。
乾ききった大地が身を震わせて喜ぶ様が判る。自身もまた地の恵みを受ける四神ゆえに。
玄武を解放した今、敵の手に残るものは黒龍のみ。
明日という日にはその黒龍との熾烈な戦いが待っている。
― 生か死か。
不敵な笑みを口元に浮かべて、友雅はふとひとりごちた。
「それも悪くない」
神子の覚醒とともに飛躍的に強化された白虎としての神力を、彼は微塵も疑ってはいない。
よもやの敗北などあり得ない、と身の内から確かな声がする。
・・・・・だが。
「君のための死ならば、それもまた一興」
声に出さずにそうつぶやいて、友雅は煙る木立に視線を投げた。
-2-
ちりん、と小さな鈴の音を耳元に拾って、友雅はふと目を開けた。
いつとも判らぬ間に、つかの間の眠りに落ちたらしい。
振り向けば、大きな藤色の瞳が心配そうにのぞき込んでいた。
「そんなに大きな瞳に見つめられては、顔に穴でもあいてしまいそうだよ」
笑って見せてもにこりともせずに、藤姫は小首を傾げた。
「お顔の色が悪いですわ。友雅殿」
小さな手を額にあててつぶやく。
「お熱は、おありではないようですけれど」
ひんやりとした掌から清冽な気が流れてくる。甘やかな藤の香りさえしたようで
友雅は我にもなく、ほんの瞬間目を閉じ、小さく息を吸い込んだ。
「友雅殿？」
いつもと違う彼の様子に藤姫は戸惑った。
疲れているのだろうか？
確かに今日という日は、玄武を解放する大役を見事に果たされてきたのだけれど。
でもそれだけではないような気がする。この感じはなんだろう。
「神子殿はどうされているのかな？」
一瞬の後、そこには普段通りの表情を取り戻した友雅がいた。
藤姫は手を袖の中に引っ込めて
「おひとりで考えたいことがあるとおっしゃって・・・」
小さくため息をつく。
「明日お勝ちになれば元の世界にお戻りになれますねって
申し上げたのですけれど・・・。
私、いけないことを云ってしまったのでしょうか。
それともなにか・・・」
「そんなことはない」
うつむく藤姫のつややかな黒髪をそっと撫でてながら
友雅は己の胃の腑に氷塊が滑り落ちていくのを、まざまざと実感していた。
「君のせいではないよ。藤姫」
-3-
いつの頃からだったろう。
気が付くといつも傍らに少女が居た。
いや、少女の元へ足繁く通う自分がいた。
八葉という役目も、そんな自分への自嘲気味の大義名分でしかなかった。
桜花とともに京に舞い降りた、希有の存在。―龍神の神子。
”異世界からの客人”への興味は確かにあった。
立ち居振る舞い考え方、その存在すべてが珍しく、故郷を偲ぶ心細げな姿に惹かれもしたが
所詮は「帰るべき人」であると分別もしていた。
・・・していたはずだった。
だが、明日という日を目前にして、彼女の喪失を目前にして、
友雅はそれが自身への虚構でしかなかったことをしたたかに思い知らされていた。
喪失感で胸が苦しい。
「きっと感無量なのだろうね」
え、というように顔を上げる藤姫に、友雅は言葉を繋ぐ。
「あんなにも帰りたがっていたからね。神子殿は」
「そう、でしょうか・・・」
答えながら藤姫は胸に溶けないしこりのようなものを感じていた。
なぜ、こんなに切ないのだろう。
「貴女にしかられないよう、明日はわたしも精々がんばって
神子殿をお助けせねばね」
友雅の軽いウインクさえも胸に詰まる。
何か、とても大事な何かを見落としているような焦燥感。
「さて、ではわたしも失礼するとしよう」
すっと立ち上がるその際立った姿に、いつもはつい見とれてしまうのに、今日は違う。
「友雅殿・・・！」
振り向く友雅の向こうに、ひときわ激しさを増した雨。
激しい雨は、見慣れた風景を無彩色に変えてしまう。
墨で描かれたようなその風景の中に、友雅が消えてしまうような気がして、
藤姫は思わず嗜みを忘れて走り寄った。
「どうされた。藤姫」
驚いて彼女を抱き留めた友雅の袖に力一杯縋って、藤姫の唇は
自身も思いも寄らない一言を紡いでいた。
「いかないでください、友雅殿」
-4-
「どうされた、藤姫。
・・・なにか不吉な占いでも？」
軽々と彼女を抱き上げて、友雅はあやすように問う。
相変わらず軽く笑みを含んだ眼差しが、藤色の大きな瞳をのぞき込む。
そうは聞いていても、占いの結果などほんの僅かもおそれていないことを、
仮に最悪の占いであっても構わないとさえ思っていることを、その視線の奥に感じて
藤姫は言葉をなくした。昨日までなかったはずの、冷たい虚無がほの見えた。
「・・・・いいえ」
唇をかんで小さくかぶりを振る。
「ごめんなさい。なんでもありません。でも心配で・・・・」
実際、占いは何も悪い結果などを導き出してはいなかった。
四神を手に入れた今、すべての卦は神子側の優勢を指し示していたのだから。
そっと彼女を几帳の内に抱き下ろして
「わたしに任せておきなさい」
軽やかに友雅は笑った。
「大丈夫。神子殿を傷つけるようなまねは、決してさせないから」
貴方が、貴方こそが！と叫びたいのを堪えて藤姫は頷く。
「・・・・はい。友雅殿」
頷き返して去っていく後ろ姿は、あふれる涙で滲んで見えなかった。
何故、彼の人が死を望んでいるなどと思ったのか、彼女には判らなかった。
ただそれは胸に浮かんだとたんに確信となって、彼女をがんじがらめにしてしまったのだ。
そして勘の鋭い彼女には、そこに自分の立ち入る隙のないことも痛いほど判った。
あまりに子供である自分を、このとき初めて藤姫は自覚した。
-5-
「明日お勝ちになれば、元の世界にお戻りになれますね」
そう云われて、何故あんなにショックだったのだろう。
あんなにも望んだことが、やっと現実に叶うというのに。
そのために、そのためだけに、ずっと死に物狂いで戦って来たというのに。
風向きが変わって、雨が部屋のずいぶん奥まで吹き込んできている。
昨日までのカラカラと乾きって咽せるような暑さは、この雨に洗い流されて、
辺りを包む清涼な空気に、木々の深呼吸が聞こえそうなほどである。
膝元の床が吹き込む雨に濡れてポツポツと斑模様になる様を、あかねはぼんやり見ていた。
「帰りたい」
ずっと、ずっとそう言い続けてきた。
それが唯一の望みであるかのように。
鬼、という存在を憎み切れない自分の、戦う理由をそこに見いだしてもいた。
帰るために戦う。それが自分にとって一番自然な動機だったから。
でも、・・・・本当に？
目を瞑れば浮かぶのは、彼の人の凛とした背中。
今日も、そして今までも、常に共にあって守ってくれたその背。
優雅で享楽的な貴公子という姿の奥に潜む、彼自身は決して素直には認めないであろう真摯さを
いつか慕わしいものと想っていた。
そして今なら判る。
あかねにとって守りたい「京」とは、彼の存在そのものであったことを。
あかねの中の「帰りたい」と「守りたい」が、密やかに、でも確実にその比重を変えてきていたことを。
夕べ、寝付けぬままに焚いた侍従の残香がほのかに香っている。
適度な湿度が香りを際立たせるのだと教えられたのは、いつだったか。
「この香りは・・・。
わたしが好きだと知ってのことかい？神子殿。
だとすれば、こんなに嬉しいことはないのだけれどね。
惜しむらくは、こんな乾いた空気では、せっかくの侍従も趣に欠けるきらいがあってね」
そのためにも早く雨を降らせたいとは、彼の人らしい物言いではあったのだけれど。
ぽつり、と涙が膝に落ちた。
天真くんに、詩紋くんになんて云おう。
・・・・・あの人に、どうやって伝えたらいいんだろう。
帰りたくない、なんて。 今更。
-6-
雨はいつか上がっていた。
重い雲が天を覆っているためか、常よりもなお暗い夜である。
皐月闇、という。
泡立つように幾つかの夢がとりとめなく弾けた。
さして暑いとも思えないのに、首筋に粘つく汗を感じて思わず手の甲で拭う。
目を瞑るとそのまま再び悪夢に引き込まれそうな気がして、
あかねは慌てて褥の上に半身を起こした。
清らかな空気を胸一杯に鼻から吸い込み、ゆっくりと口から吐き出す。
泰明に教わった深呼吸を幾度も繰り返すうちに、浅い夢の残滓は少しずつ拭われていった。
夜半を過ぎたのか、辺りはしんと静まりかえっている。
閉ざされた空間に居ることに息苦しさを感じて
あかねはそっと塗籠を抜け出した。
遠く塀の辺りがちらちらと明るむのは、警護の武士たちが焚く篝火だろうか。
庭からは濡れた草木と土の香りがする。
こんなにも鮮烈な緑の匂い。命の息吹。
我知らず深呼吸しながら、あかねは雨が文字通り「天の恵み」であることを実感していた。
そんなことに気が付かないほど、自然と隔たった生活を送ってきた。
アスファルトとコンクリートに囲まれて。
・・・そして明日、恋いこがれた其処に帰ろうとしている。
ふと、空気に甘やかな香りが混ざった。
優雅で豪奢な、・・・・とても親しい香り。
まさか、・・・まさか。でも。
-7-
下草を踏み分ける指貫の裾は、重いほど濡れている。
いくら雨が上がったからといって、庭からそっと、というのは些か無謀だったなと
彼は裾を捌きながら苦笑した。
だが眠れぬ夜を独り過ごすよりは、せめて外からでも彼女をひとめ見ておきたかった。
明日の夜には、もうこの世界に居ない人だから。
通い慣れた庭の小道を辿るのも、これで最後だろう。
・・・もっともこのような時間に訪れたことは、かつてありはしなかったが。
建物の角のひときわ大きく張り出した枝を、揺らさぬように注意深く潜って
彼方を見やった友雅は、そこで思わず立ち止まった。
階の上に大きな目を一杯に見開いて、あかねが居た。
白い小袖のせいか、それとも類い希なる神気のためか。
皐月闇の中、彼女だけがぼぅっと明るく際立って見える。
自失の一瞬。
ふ・・・まったく心臓に悪い。
独白を胸に飲み込んで、友雅は口元に笑みを浮かべる。
「眠れないのかい？神子殿」
「・・・・・どうして、友雅さん」
「ふふ、・・・君の元に忍んできたとは思ってくれないのかい？
明日は別れる身だというのに、相変わらずつれないねぇ」
別れるという言葉が胸に刺さって、あかねは返事ができなかった。
― 泣くまい、と思った。
この人にとって、私はただ「龍神の神子」なんだから。
明日が過ぎれば、きっと忘れてしまうのだろうから。
それでも口を開けば、言葉を発するより早く嗚咽が漏れてしまいそうで
あかねは唇をきゅっと噛んだ。
「おやおや、せっかくこうして逢えたのに
口もきいてはくれないのかい？
・・・・そんなつもりで摘んできたのでは、なかったのだがね」
苦笑した友雅は、懐から白い蕾の付いた枝を差し出した。
夜目にも白いそれは、もうこの時期には珍しい、名残の梔子。
ためらい勝ちに受け取ると、ほのかに甘い香りがした。
-8-
「え？好きな香りの花、ですか？」
出会って間もない頃、友雅に聞かれてあかねは答えに詰まったことがあった。
好きな香りといって、初めに浮かぶのは花ではなかったから。
ミルクをたくさん入れないと飲めないけれど、大好きなコーヒーの香りとか、
クッキーを焼くときのバターとバニラの香りとか。
でも、そんなことを云っても友雅には判らないだろうし。
と、その瞬間、鼻先にふいに甦った香りがあった。
甘やかな、どこか華やかな香り。
「えーっと、クチナシ、とか。えへへ・・・・わりと」
「ふうん、梔子、ねえ」
それきりの会話だったけれど、あかねには忘れられなかった。
無頓着だった花の香りに敏感になったのも、それがきっかけだった。
そんな会話のあれこれが甦って、胸が苦しかった。
今にも溢れそうな涙を必死に堪えたが、ひとつしゃくりあげてしまうと
もう止まらなかった。
-9-
友雅は、立ちすくんだまま泣きじゃくるあかねを、らしくもなく呆然を見つめた。
「・・・神子殿？」
両の手で顔を覆ってかぶりを振る彼女の、か細い肩がふるえている。
思わずその肩に掌を乗せると、すがりつくような視線とぶつかった。
どちらが先に手を差し延べたのか判らない。
気が付くと友雅は胸に、宝物のようにあかねを抱きしめていた。
「神子殿」
「・・・・どうしよう、友雅さん。私、どうすればいいの」
「大丈夫、心配しなくても守ってあげるよ。
この身に代えても、君は元の世界へ帰してあげるから」
「・・・ちがうんです・・っ」
「神子殿？」
あかねは身を捩って友雅の腕から抜け出ようともがいた。
彼の胸の暖かさが辛かったから。
突っ張った腕の分だけ、ようやく彼の胸から離れたけれど、腕を掴まれて引き寄せられると逆らえなかった。
見上げると、間近に友雅の憂いを含んだ、けれど優しい眼差しがあった。
直視できなくてそむけた頬にそっと触れる大きな掌。
「何があったのか、聞かせてはくれまいか？神子殿」
「何も・・・、いいえ、なにも」
「君らしくないな。・・・それとも私になど話せないことなのかな」
「そんな・・・っ」
新たな涙が溢れて、あかねの頬と友雅の指先を濡らした。
-10-
微かなため息の気配とともに、背に回された腕の力がふと緩んだ。
すっと体を離されて思わず見上げたそこには、友雅のはぐらかすような微苦笑があった。
「明日は大事な日だから、もうおやすみ、神子殿。
―――私も退散するとしよう」
ためらいもなく向けられた背中が切なくて、あかねは思わず彼の袖に縋った。
「神子殿？」
「・・・・帰りたくないんです。
でも、どうしたらいいのか、判らないの」
半身だけ振り向いた友雅の、その怪訝そうな表情に急かされるように言葉をつなぐ。
「ここに、・・・・・・・・貴方のそばに居たいのに」
友雅の目から微笑の影が消えた。
「自分が何を云っているのか、判っているのか？君は」
初めてみる友雅の怖いくらい真摯な眼差しに、身体の芯がぞくりと震えた。
「だって、もう、どうしたらいいのか判らないんだもの！
帰りたくないわけじゃないんです。――でも。
でも、京が、・・・ううん！友雅さんが好きなんだもの」
それは半ば叫びに近かった。
出会ってから今日までの三ヶ月余の日々に、知らずに胸に積もった想い。
不意に強い力で抱き寄せられて、あかねは一瞬眩暈がした。
-11-
耳を打つ鼓動を友雅のもの、と判ずるのに戸惑ったのは
あまりにそれが速かったからだ。
「あまり人を驚かせるものではないよ、神子殿」
熱いため息と共に耳元に振ってきた声は、常とは違ってどこか戸惑いを残している。
そんな彼の顔を確かめたくて身じろぎするあかねを、友雅は強く抱きしめた。
「友雅・・・さん？」
「―――見ないでくれ、神子殿」
情けないことに自信がないんだ、と友雅はつぶやいた。
「え？」
「自分が今どんな顔をしているのか」
途絶えた言葉の隙間を熱い鼓動が埋めていく。
どんな強敵と対峙しても余裕の笑みを絶やさなかった彼。
神子殿が居る限り、負けてあげるわけにはいかないね、と。
それが・・・。
「君は、桃源郷の月だから。
・・・・・・教えてくれないか、神子殿。
月を捕まえた男は、一体どんな顔をしたらいいのか」
答える代わりにあかねは、そっと両手を友雅の背に回した。
「―――離さないでいて、ずっと」
小さな、精一杯のささやきに返ってきたのは、この上なく甘やかな誓いだった。
「この命が尽きるまで」
-12-
「おいで、姫君」
こんなに穏やかな日々が在るとは、かつては思っても見なかった。
降りしきる桜花の中を歩み寄る愛しい影。
彼女を失うならば、いっそ皐月闇の中に滅してしまおうと思った、我が身と想いは
いま、少女の心に柔らかくくるまれている。
巡る季節がこんなにも愛おしい。
再び巡り来る皐月闇にも、この想いを見失うことはない。もう二度と。
望んで得られぬはずの奇跡を手に入れたのだから。
ずっと君を見つめていよう。
どこまでも共に歩いていこう。
この尽きせぬ想いを胸に抱いて。
愛している。君を。
君だけを。
――――永遠に。
ｅｎｄ