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「藤原鷹通さまが、お越しになられました」
女房の告げる声に、藤姫は琴を弾く手をとめた。
昨夜来の雨も上がり、吹き抜ける風は既に涼しさよりもどこか冷たさを感じさせる。
藤姫は早くも夕方の気配を忍ばせる青い空を見上げ、ちいさくため息を落とすと側仕えの女房に几帳を立てさせた。
庭の草陰に小さく秋の虫が鳴いている。
「ご無沙汰しておりましたが、お変わりありませんか」
爽やかに衣擦れの音を立てて几帳の向こうに座り、鷹通はこう云った。
その言葉に、控えていた女房がつい、くすりと笑みを漏らす。
「失礼ですよ」
小声でそれをたしなめながら、つられたように藤姫もくすくす笑ってしまう。
「鷹通さま、つい３日ほど前にも同じことをおっしゃいましたわ」
「そうでしたか？これはしまったな」
几帳のむこうで鷹通が軽く笑う。
そして、そうそう、と持参したものを女房に手渡した。
「少々早いのですが、姫のお好きなものが手に入りましたので」
女房の手を介して姫の手元に届いたのは、小さな竹かごに品よく盛られた青い柚子の実。
「まあ、もう？」
そっと手に取るとまだ小さいながら、それは鮮烈に香った。
・・・遠い昔の記憶と共に。
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「藤姫の仰せなら、すぐに戻りますよ」
そう云って微笑った人は、そのまま京に帰ってこなかった。
・・・あれはもう、６年も前のこと。
彼は遠い伊予の国に愛する人と共にいて、幸せなのだと判っているのに。
なのに想い出すと切なくて、藤姫はきゅっと唇を噛んだ。
「・・・藤姫？」
気遣うような鷹通の声に、彼女は物思いから醒めた。
「あ、いえ・・ごめんなさい」
「ご気分がすぐれないようでしたら退散いたしましょう」
「・・・・いいえ」
ちいさくかぶりを振って藤姫は微笑んだ。
「あのころのことを想い出したのですわ」
あのころ京は危機に瀕していた。
鬼と怨霊に蹂躙され、あわや滅亡かと思われたとき、伝説が現実になったのだった。
龍神の神子と八葉という伝説が。
夢中に過ぎた３ヶ月の日々。
渦中にいた本人達にも、それはまるで夢の中の出来事だったような気がする。
異世界からの神子を迎え、八葉もまた身分も境遇も違う者たちが集った。
そんなことがなければ一生出会うことも、まして共に戦うこともなかっただろう人々。
「まるで夢のようでしたわね」
ぽつり、と藤姫は呟いた。
６年の歳月は、そうして集った人々を、再びそれぞれの場所へ連れて行ってしまった。
・・・彼女の手の届かない場所へ。
「−−−姫？」
「姫さまっ」
すっと目の前が暗くなり、意識が遠くなった。
「あれ、鷹通様！」
カタン、と几帳が押しのけられ、遠くで女房の声が・・・・・・した。
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冷たい頬にそっと添えられている温かい掌。
この温かさは、とても心地よくて・・・懐かしくて。
鳴神におびえて独り泣いていた夜にそっと抱きしめて居てくれた、あの腕の中の安らぎと同じ。
「姫、藤姫？」
正体なく目を閉ざす彼女を腕に抱え、鷹通は妙に落ち着いている側仕えの女房を振り返った。
「どうされたのだ、姫は」
彼女の手にある札を見て鷹通は眉をひそめる。
「・・・それは？」
「わたくしは安倍の家の者にございます」
「では、物の怪か」
「そう呼ぶほどもないモノにございます。・・・なれど」
つ、と膝でにじり寄った女房は小さく呪を唱え、手にした札で藤姫の額を撫でた。
ほぅっと藤姫の口からため息が漏れ、微かに寄った眉根が開く。
人形のようにこわばっていた身体から緊張が去り、鷹通の腕に柔らかな重さが加わった。
安らかな寝息を確かめ、鷹通は女房に問うた。
「なぜ、・・・いつからこんなことに？」
応えて女房は深く頭を垂れた。
「どうか、どうか姫さまをお守り下さいまし。
・・・・・姫さまに未来を生きる力をお与え下さいませ、鷹通様」
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「どういうことなのか、説明してもらえるだろうか」
几帳の陰に用意されたしとねへ藤姫をそっと寝かしつけて、鷹通は女房を振り返る。
女房は再び小さく呪を唱えると、手にした札を藤姫の襟元に軽く差し入れた。
こちらへ、と身振りで先程の間へ鷹通をいざなうと、女房は再び平伏した。
「わたくしはあの乱の後、泰明様より姫さまをお守りするように遣わされた者にございます」
「泰明殿が？」
「はい、主は遠くに居りますので、代わりにお守りせよと」
「先程から守ると貴女は云うけれど、いったい何から？
怨霊の類は居なくなったのではなかったのですか」
「怨霊も、物の怪も居なくなったのではございません、鷹通様。
白龍のお力で浄化されましたが、やがてまたよみがえりましょう」
「それでは、先程藤姫を苦しめたあれは」
「いいえ、あれはそのようなものではございません。
・・・いっそ怨霊の類の方がどれほど扱いやすいことか」
そういって女房はほっそりした指を頬に当て、少しの間藤姫の方を見やっていたが、
やがて意を決したように口を開いた。
「姫さまはお小さい頃よりずっと、星の一族として生きてこられました。
お母君を早くに亡くされて、なおさらその思いがお強かったように、・・・いいえ
それだけを支えに生きてこられたようにもお見受けいたします」
「確かに姫には星の一族の自覚が強くおありのようだね」
「はい。なれど」
「なれど？」
「星の一族というのは、ご存じのように龍神の玉を守り、神子をお支えする役目。
言い換えれば京が危機に陥り、神子の力が必要とされる危急の場合にのみ
必要なお役目でございます」
女房は再び痛ましそうに、几帳の陰に臥す藤姫を見やった。
「代々の星の一族は、この様なお役目をただ継承することが務めでございました。
なれど姫はお小さいときに一族の宿命ともいえるお役目につかれたのございます」
頷いて鷹通は「そう、おぼえている」とつぶやいた。
小さな少女だった藤姫が星の一族として、大人さえ怯む怨霊や鬼に果敢に立ちむかっていたことを。
直接戦いの場に出ることはなかったが、だからといって恐怖から逃れられるわけではないことを
当事者達が一番良く判っていた。・・・相手は異形のモノ達なのだから。
そう、あのころは・・・。
「姫さまは」
女房の言葉に、鷹通はつかの間の回想から現実に引き戻された。
「姫さまは”あの頃”に囚われておいでなのです」
「え？」
「あの頃の出来事というのは、あまりに過激であったためにかえって現実味がなく、
まるで夢の中の出来事のように心を引きつけてしまうようなのです。
・・・・いまあなた様もそうであられたように」
瞬間、言葉をなくした鷹通に、女房は再び深く頭を垂れて平伏した。
「どうぞ姫さまを過去から解き放ち、未来を生きる力をお与え下さいませ。
それをお願いできますのは、同じ経験を持つあなた様しかございません」
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遠くで虫が鳴いている。
とりどりの幾つもの虫の音が重なって、まるでそれは遠い夢の音楽のよう。
ふ、と藤姫は、すぐ側に誰かの寝息を聞いた。
規則正しく繰り返されるそれは、女房達のものではない。
おそるおそる振り返って見たものに驚きの目をみはり、藤姫は・・・・やがてくすっと笑った。
手を伸ばせば届くほど間近にある彼の膝。
脇息に凭れて眠る彼の貌は差し込む月光に照らされて、白皙の、という形容がぴったりだ。
いつもきちんと鼻の上に乗っているめがねも心持ち傾いで、彼がうたた寝のまま深い眠りに落ちていることを示している。
そっと起きあがった藤姫は、彼の肩に衣をそっと着せかけた。
自分のしとねの上に戻ってきちんと座わり、藤姫は改めて小首を傾げた。
・・・どうして鷹通さまがココに？
辺りの気配を推し量れば、時刻は既に更夜を越えていよう。
未婚の男女が共にいて良い時間では、むろんない。
それどころか、普段なら感じられる側仕えの女房達の気配すらまるで感じられない。
これではまるで・・・。
気が付いて藤姫は赤面した。
これではまるで、新婚のしとねではないか。
そう意識した途端、藤姫は身動きが出来なくなってしまった。
どきどきと自分の鼓動ばかりが耳につく。
もはや庭の虫の音など聞こえていない。
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ふ、と規則的な寝息がやんで、鷹通がぽかりと目を開けた。
脇息に凭れたその姿勢のまま、なにかを想い出そうとしているように軽く眉間を寄せている。
やがて、はっと思い当たったように身体を起こすと、辺りを素早く見回した。
すぐそばに藤姫がきっちり居住まいを正して座っている。
深くうつむいた顔は豊かな髪にかくれて見えないが、重ねられた袖の中で姫の小さな手がふるえていた。
「・・・すみません、眠ってしまったようですね。私は」
鷹通は心底すまなそうに、そう謝った。
「鷹通さま・・・どうして？」
静寂の中でさえ、耳を澄まさなければ聞き取れないほど小さな声で、藤姫はやっと答える。
「どうして、ここにあなたが？」
脇息の上に繊細な長い指を組んで、鷹通は考えをまとめようとするかのように一点をみつめた。
ジジッと燭台の炎が揺らめいて、彼の貌に複雑な陰影を落とす。
藤姫は床に落ちた彼の影をじっと見つめていた。ゆらゆらと揺らめく、その影を。
二呼吸ばかりの沈思の後、鷹通は組んだ指をほどいた。
傾いだめがねを鼻の上に乗せ直し、軽く居住まいを正す。動作に連れて優美な香が匂い立った。
「藤姫。あなたにお聞きしたいことがあります。
答えていただけますか？」
藤姫の頭が微かに頷くのを見て、彼は優しい、けれどきっぱりとした声でこう云った。
「私はあなたが好きです。お守りしたいと思うのです。
この私が、あなたと共に生きていくことをお許し願えましょうか？藤姫」
藤姫は硬く目をつぶった。両の手をしっかりと握りしめて。
やがてその唇からこぼれ出た言葉は、おそらくそれまで彼女自身さえしかとは判っていなかった悲鳴だった。
「・・・・・わたくしには、あなたに差し上げられるものがなにもありません」
「姫」
「左大臣の娘であっても、あなたに差し上げられるなんの後ろ盾も持たず
星の一族の使命ももはや果たしてしまいました。
・・・わたくしには、何もないのです」
深く伏せた面からパタパタと涙が落ちた。
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| -7- |
「藤姫」
二人の間を隔てる脇息をスッと傍らに寄せ、鷹通は真正面から藤姫の両肩を抱き寄せた。
その腕の中で藤姫は身体を強張らせる。
「姫、私が欲しいのは星の一族でも左大臣家の援助でもなく
貴女なのですよ」
「鷹通さま、でも」
「それとも私は、・・・・橘少将に、まだ劣っていますか？」
「え？」
「貴女があの頃を振り返らずにはいられないのは、
それは彼のせいなのではないのでしょうか」
「いいえ、それは」
思わずふり仰いだ彼女の視線は、真摯な鷹通の視線に捕らえられ、背けることが出来なくなった。
「わたしはずっと、彼の面影が貴女の中から消えるのを待ちました。
けれど待つだけでは、なにも変わりません。・・・そう、変わりませんでした。
私はこれからの人生を、貴女と生きていきたいのです」
きっぱりと彼女の目を見たまま、鷹通は告げた。
「貴女を愛しています、姫」
「・・・でも、本当にわたくしでよいのですか」
しばらくの逡巡ののち、彼女はやっとそれだけを口にした。
それに応えるようにぐっと鷹通の両腕に力がこもり、彼女は彼の胸元へ抱き寄せらた。
「あなたは自分がどれほど魅力的なのか、まるでご存じないようですね。
もう何年も、私はあなたの虜だったというのに」
「鷹通さま・・・・」
頬を染める藤姫に、鷹通は想いをぶつけるように一気に云う。常にはない緊張したような早口で。
「共に生きていきましょう。
そして願わくば、・・・次代の星の一族の親となるお役目を、私にも背負わせてください、姫」
鷹通の腕のなかで、藤姫は小さく頷く。
彼女の豊かな髪がさらさらと鷹通の膝にこぼれた。
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| -8- |
遠くで虫が鳴いている。
とりどりの幾つもの虫の音が重なって、まるでそれは遠い夢の音楽のよう。
二人で引き被っているこの衣は彼のもの。
焚きしめた侍従の柔らかな香りに包まれて、藤姫はうっとりと目を閉じた。
同じ配合であっても、調香する者の好みやセンスで微妙なニュアンスが異なるものだけれど、
華やかでどこか甘やかな友雅の香りと、甘さも残しながらどちらというときっぱりとした鷹通の香りは
同じ「侍従」の香のはずなのに、まるで別なもののようで。
彼の香りに包まれてその安らかな寝息に耳を済ませていると、心が温かいもので満ちてくる。
こんなに穏やかに優しい気持ちになれたのは、きっとうまれて初めて。
思えば、彼はあの頃からずっと変わらずにそばに居てくれた。
皆がそれぞれの生活に戻り、友雅が神子と伊予に去った後も、鷹通だけは変わらずここを訪れて
何くれとなく藤姫を支えてくれていた。
・・・同じ境遇の貴族同士だから？それとも？
「ねえ、どうして？・・・・鷹通さま」
小さなつぶやきにかえってくるのは、相変わらず規則正しい寝息ばかりで。
その胸に頬を寄せて藤姫は温もりを愛おしむように微笑んだ。
朝日に開く 花のつぼみのように。
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| ｅｎｄ |
あとがき
いきなりのカップリングで驚いた方も多いでしょうね（笑。なんとなんと鷹通＆藤姫。
このお話しは遥か１の物語から６年後、花も恥じらうお年頃、１６歳の藤姫を書きたくてできました。
前作「伊予の真砂」に書いたように、うちの友雅さんは伊予で神子と幸せになっています。
・・・となると藤姫ちゃんは？？？
彼女には絶対幸せになってほしいでしょ？
そこで登場するのが、マメ人の鷹通さん（笑。
彼ならきっと藤姫の成長を待って、彼女を誠実に愛してくれるにちがいないぞと。鷹通さんこのとき２５歳。
ヴィジュアル的にもお雛様のようになかなかお似合いですし、なにより後世の双子の子孫の生真面目さと
使命感の強さってば、絶対二人のＤＮＡ入ってるぞとワタクシは思います（笑。
藤姫ちゃんの幸せ第一優先で婿殿を決めてしまいましたけれど、こんな二人の馴れ初めはいかがでしょう？
お気に召すとよいのですが。感想などお気軽にお寄せ下さいませね。
では、また次の物語で。
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