冬湖

冬湖

-1-

　
　
きし
さく
きし
さく
　
明け方の寒さに冷え固まった新雪の上を、彼は独り歩く。
早朝のこととて都大路に人影もなく、上がったばかりの太陽がわずかに残る牛車の轍を鮮やかに浮かび上がらせる。
　
きし
さく
一足ごとに軋む雪の感触を足裏に楽しむかのように、口元にかすかな笑みを浮かべて彼は歩く。
長い髪が、あるかなきかの風に吹き散らされるのもかまわぬげに。
「君をさらいに行くよ、姫君」
つぶやきは、誰に聞かれることもなく朝日に融けた。
　
　
　
　
　

-2-

　
君と行きたい場所がある、と云われて断れなかった。
いつも通りに軽やかに剽げて見せていても、その瞳が思いのほかに真剣だったから。
どこへ？と訪ねる間さえ惜しむかのように彼女の肯定だけ見届けて駆けだしていく彼を、花梨はびっくりして見送った。
どんな時だって”駆けだして行く”などと云うことは、絶対にしない彼だった。
”余裕綽々”という言葉は自分のためにあるのだとさえ云いかねないほど、常に余裕を持って振る舞っていた彼だったから。
　
「門の所で、って云ってたよね？」
小首を傾げながらも、花梨は彼のあとを追って歩き出した。
　
新雪に覆われた四条院の広大な庭は、まだ低い朝の陽を反射してすべてがまぶしく、きらきらと輝いている。
その真ん中を突っ切るように残る翡翠の足跡。
それを一つずつなぞって歩こうとして、花梨はすぐにあきらめた。
翡翠の足跡は走ったせいか常よりもさらに間遠で、彼女が辿るには一つひとつがあまりに遠すぎて。
やがて厩（うまや）の方へ逸れた足跡がまだ戻ってきていないことを確かめて、花梨は門へと急ぐ。
なぜだか待たせてはいけないような気がして。
・・・彼を待っていてあげたい気がして。
　
それにしても、一緒に行きたい場所ってどこだろう？
　

　
　
　

-3-

「そんなに前屈みになっていると、落ちてしまうよ。神子殿」
笑い含みに云われて、花梨はたてがみにしがみつく指にさらに力を込める。
さあ乗って、といわれて乗せられた馬に彼も一緒に乗るなんて思っていなかったから。
彼女の後ろに身軽に飛び乗った彼は、花梨を抱くように腕を伸ばし手綱をさばく。
彼の体温を背中に感じるほどの思いがけないこの近さに、緊張するなという方が無茶というもので。
自分の鼓動がイヤに耳について、それが彼に聞こえてしまいそうな気がして、花梨はますますたてがみにしがみついた。
　
彼女の背中になかなか融けない緊張を見て取って、翡翠は密かにため息を落とした。
「神子殿、怖いのは馬かい？
　・・・それともわたし、かな」
笑いに紛らせた彼の言葉に、びくんと花梨の肩が跳ね上がった。
「戻ろうか？神子殿」
翡翠は手綱を軽く引いて馬を止める。
らしくもなくわずかに隠しきれない落胆が声に滲んだことに、彼自身は気がついただろうか。
「い、いいえっ」
反射的に首を振った動きにつれて、髪に隠れていた彼女の耳が露わになる。
痛々しいほどのその赤さは、寒さのせいだけだろうか？
「怖いんじゃなくて、・・・えっと」
うつむいたまま一生懸命言葉を紡ぐ彼女の耳に目を留めて、翡翠はくすっと笑みをこぼした。
「わたしとしたことが、君にそんな思いをさせるなんて」
彼は鞍に結んだ荷物から皮衣を取り出すと、それを彼女の肩をくるむように着せかけた。
「これならいいかな？」
「え」
「寒かったんだね？神子殿」
「あ、えっと」
自分をくるむ衣の暖かさとその厚みに、ふと肩の力が抜けた。
「出かけてもいいかな？姫君」
改めて手綱を握る翡翠に、こくん、と花梨は頷いた。

　
　
　
　

-4-

　
　
　
　
宇治橋を過ぎて川伝いの道を彼は馬を急がせる。
早朝に出かけては来たものの、冬の陽は短く、昼をまわってからは一気に夕方の気配を忍ばせるからだ。
彼ひとりのものならばいざ知らず、この姫君には「龍神の神子」というとてつもない大役がある。
今日中に帰れませんでした、では済まないのだ。　
　
慣れない馬上で、しかも早足で駆ける馬の背から落ちないように必死で鞍にしがみついている花梨は
いつのまにか翡翠が片手で彼女を抱きしめていることに気がついていなかった。
実際そうしていなければいつ転がり落ちても仕方のない状態であったものの、そうした半ば確信犯的な自分に
翡翠は内心苦笑してもいた。
彼女に着せかけた皮衣が必ずしも防寒のためだけではなかったことを、オトナな彼は当然了解している。
あのとき彼女が欲しかったのは彼自身との「距離」だったことを察し、手近なパッキンとして皮衣を利用したに過ぎない。
それで彼女の乙女な警戒心がやわらぐことを経験的に知っている自分に、またそうした策を弄する自分に苦笑しつつ
彼は馬を急がせる。
そうまでして彼女を連れ出したかったのはどうしてだろう？・・・その解けない疑問を胸の中で転がしながら。
　
　
　
　
　

-5-

　

　
目の前に突然開けた景色に花梨は息をのんだ。
傾きかけた冬日に光る湖は、自分の時代で幾度もみたことのある琵琶湖にちがいないのに。
どこまでも広がる空と、それを映す鏡のような湖面と。
　
「・・・きれい」
「きれいだねえ。・・・この景色を、君と見たいと思ったのだよ」
翡翠が独り言のようにつぶやいた。
「どうして、だろうね？」
そっと振り仰ぐと、傾きゆく日差しに目を細めていた彼は花梨へ視線を戻して微笑った。
「すこし馬を休めようか」
　
眼下に湖を見下ろすここは、行き交う旅人の格好の休憩場でもあるらしく、人の手で積まれた椅子のような石組みと
山の水を引いた水飲み場がある。
慣れない乗馬で足のふらつく花梨を石組みに座らせ馬を繋いでから、翡翠は自身も大きく伸びをした。
くすっと笑う声に振り向くと、小首を傾げて花梨が笑っている。
笑い返して彼女の隣に座ると、翡翠は「寒くはないかい？」と皮衣の上から花梨の肩を片手で軽く抱きしめてみた。
ぴくっと肩をすくめて、でも花梨から返ってきたのは「大丈夫です」という微笑みだった。
　
「でも」
ふと真顔に戻って、花梨は翡翠を見上げた。
「どうして、ここへ？本当に素敵なところですけれど」
「どうして、だろうねえ」
再び湖面に視線を落として翡翠はつぶやいた。
「・・・私がさいごの心の欠片を取り戻したときのことを、覚えているかい？」
「ええ。
だって翡翠さん”これは自分のじゃない”なんて云うから」
「ああ、そうだったね。
自分の心の欠片を取り出して”ほら”と目の前に差し出される経験は、そうそうないからね」
自嘲気味に笑って翡翠は頷く。
「自分には絶対に無いと思っていた欠片だったのだよ。・・・あれは」
つと立ち上がり、彼は湖をみたまま軽く深呼吸する。
そして息と共に想いを吐き出すように云う。
「だがあれを取り戻した瞬間、どうしてだか君と此処へこようと思ったんだ。
私が美しいと思うこの景色を、
・・・君なら同じように美しいと感じてくれるような気がして、ね」
湖に向けたままの彼の視線が切なくて、花梨は思わずその背中を抱きしめた。
ずっと被っていた皮衣が落ちるのもかまわずに。
「神子殿?!」

　
　

-6-

後ろからまわされた細い腕にそっと自分の腕を重ねて、彼は目を閉じる。
「人は誰でも独りだと、・・・そう思ってきたのだよ」
「翡翠さん？」
「誰もがひとりで生まれ、ひとりで死んでゆく。
永遠などありはしない。刹那が楽しければそれで良かった。
だから自分に執着もないし、他人にも興味をもたないはずだった」
独り言のようなその言葉に、花梨は切なくなった。
「今でもそう思っているんですか？」
重ねた彼の腕に、ふ、と力が籠もった。
「独りだということは、ね」
言葉と共にあっというまもなく振り向いた彼は、花梨をその腕に軽々と抱え上げた。
「！きゃっ?!!　翡翠さんっ」
慌てる花梨と目の高さを同じにして彼は微笑む。
「だけど君には興味津々と云ったら、信じてもらえるだろうか？神子殿。
君からだけは目が離せないのだよ。・・・この私としたことが、ね」
「翡翠さん・・・っ」
頬を紅に染めて恥ずかしげに視線を逸らす花梨を、彼は石組みのうえにそっと降ろした。
「君を困らせるつもりではないのだよ。
だが、さいごの欠片を取り戻すまで自分にあることさえ気がつかなかったこの気持ちが
こんなにも強く私を捉えて離さない。
-----君と同じものを見たい、出来ることならば永遠に同じ時間を過ごしたい、とね」
地面から皮衣を拾い花梨に差し出しながら、彼は苦笑した。
　
「わたしも、人はひとりなのかもしれないと思います。でも」
「でも？」
「ひとりずつだから、誰かと過ごすことが楽しくて大切なんだって思うんです。
ちがう者同士だから”分かり合えること”がとても嬉しいんじゃないかって。
おなじものをわけ合いたいと思うじゃないかって・・・きゃ」
両手に抱えた衣ごと翡翠に抱きしめられて、花梨は思わず小さな悲鳴を上げた。
「このまま君をさらってしまいたいよ、神子殿」
花梨が石組みの上に立っているせいで、ほとんど同じ高さにあって見えない彼の顔。
耳に届いたそのささやきは思いがけないほど真剣で。
「翡翠さん」
キュッと一瞬息の止まるほどきつくなった彼の腕は、だが小さなため息と共にするりとほどかれた。
「翡翠さん？」
花梨の怪訝な表情に微苦笑で彼は答えた。
「帰ろう神子殿。
・・・名残惜しいけれど、これ以上遅くなると今日中に帰れなくなる」
　
”わたしに自制心が残っているうちに”という台詞を胸の中でつぶやいて
彼は小さく肩をすくめてみせた。
　
　　
　
　

-７-

　　
満天の星空の下、翡翠は馬を急がせる。
山道を降りるまでなんとか残っていた残照も、京に入る頃には星明かりにかわっていた。
　
都大路に入り見慣れた四条院の塀が見えてきた頃、すでに時刻は夜半を過ぎていた。
相変わらず皮衣を挟んでではあったが、安心しきったように背中を預ける彼女を宝物のように抱きしめて
翡翠は手綱をさばく。
この時間がずっと続けばいいと、半ば本気で思っている自分に驚きながら。
「済まなかったね、神子殿」
「翡翠さん？」
「無茶を承知で、君をあそこまで連れて行った」
「・・・うれしかったから」
「え」
「翡翠さんが、あの景色を一緒に見たいって思ってくれて」
「神子殿・・・」
愛しいという想いが溢れて言葉にならないなんて、ずっと絵空事だと思っていた。
出てこない言葉の代わりに、翡翠は彼女を抱く片手にただぎゅっと力を込める。
その手に彼女の手がそっと添えられて。
あわや、というそのとき。
馬は最高のタイミングで四条院の門の前に着いていた。
　
門の前に焚かれた篝火は、帰りの遅い彼女を案じる紫姫の配慮だろうか。
此処でいいという花梨を馬から抱き下ろして、翡翠は自分がまだ彼女を離したくないことに気付き
密かに苦笑した。
「神子殿」
思わず彼女を呼び止めてから、彼は云うべき言葉がないことに狼狽する。
「翡翠さん？」
振り返り無邪気に小首を傾げる花梨に、彼の自制心がぷっつり切れた。
「おや、まつげに夜露が降りてしまったね。とってあげよう。
・・・神子殿目を閉じて」
　
　
　
　
　
　
　
　　
　
　
　
　
　
　

-8-

　
　
　
　
平静を装って別れて来たものの、辺りが暗いことに翡翠は内心感謝していた。
自分の台詞に赤面するなどど。
己の中でせめぎ合う二つの自分がある。
なにを口走っているんだと思う冷静な自分と、ただひたすら盲目的に彼女が愛しいと思う自分と。
　
照れ隠しのように闇雲に足を運んでいた翡翠の歩みが、ふ、と止まった。
「・・・さらわれたのは、もしかして私の方、か」
　
　
　
　
彼の頬に我知らず浮かんだ微笑みが、とてもとても幸せそうだったことを知っているのは
ただ満天の星空だけだったけれど。
　　
　
　
　
　　
　
　
　
　
　
　
　
　
　
　
　

ｅｎｄ

　
　

あとがき
このお話は翡翠さん通常恋愛４段階目のちょっとアレンジ版です。
「私の白菊」
こんな恥ずかしい（笑）台詞を、いつものように遊びではなく、もしも大まじめに云ったのだとしたら
「自分に冷静な」彼がどんな顔で口走ったのかしら。と。
案外口走ってから自分で恥ずかしくなっちゃったりしてないかしら。と。
　
ちなみに私はこのイベント終了直後、パカラッパカラッと軽快に馬で走り去る翡翠さんに
思わず「馬泥棒」っとつっこみ入れてました（笑。
だって借りてくるって云ったんだもん～。さすが海賊（笑。
　
久し振りに書いた「遙か２」は、また花梨ちゃん＆翡翠さんでした。しかもまた乗馬ネタで（笑。
ちょっとでも楽しんでいただければ嬉しいです。
では、また次の物語で。